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「喜右衛門のひとりごと」カテゴリーの記事一覧

進化とはダーウィンが唱える環境に左右されて変化するイグアナの世界のことではないと思います。
人間の場合は意思というものが強く進化の過程に影響します。
もちろんイグアナにも意思はありますが、生命の基本的欲求である生存欲求が引き金の
生きる為の進化といえます。人間は人類として次の欲求である所有欲求・差別欲求・創造欲求と
レベルを高度にして、進化を成し遂げた生命だと考えます。
しかしここに来て人類の五感は退化しているようにも見えます。賞味期限の表示を見ないと腐敗しているかどうかも解からなくなったというのも、味覚や臭覚が狂っている証です。
もっとひどく退化したのは、肌の一部や全体で感じる皮膚感覚、触覚でしょう。
なぜこれらの感覚は低下したのでしょうか?
昔の農夫は湿度を肌で感じて明日の天気が解かりました。予報を聞かなくても農夫の肌や指の触感は、天気を感じて予見出来ていました。それはやはり彼らが日頃から自然の根本である本物の土と親しんでいたからだと思います。
江戸時代の職人には、指の先で色を見分けられる人もいたと言います。きっと職人も土と触れる生活をしていたのでしょう。
もちろん人間の全ての感覚が退化した訳ではなく、映像や音楽、芸術などに対する感性はとても豊かに発展しているとも思います。もっとも喜右衛門には最近の音楽はメロディーが急に上がったり下がったり、歌詞も意味不明で付いていけませんが・・。
という事からも、最近の芸術と言うのは、目や耳で感じる感性の範囲のものが多いように言われています。もしかしたら、現代人は目や耳に頼りきり、そこに過度に刺激的な情報が入ってくる為に、その他の感覚が鈍ってしまったのかもしれません。
皮膚感覚など、人類が高度に発展させてきた過程で退化してしまった感覚がたくさんあるのです。
恐竜も高度に進化させた部分があり、相当長い期間地球を支配することは出来ましたが、最終的には植物を食い漁って植物に反抗されたか、天変地異に対応できずに死滅したかどちらかであったと思います。
結局、バランスや対極・中庸が生命には肝要で、それを無くすと滅び去ることになるという事でしょうか。
という事で、現代人に求められているものとは、現代的な「土に触れる生活への回帰」ではないのだろうかという事を痛切に思います。
意志を持ちバランス兼ね備えた人類としての進化を目指し、土から感じる新しいライフスタイルを個性豊かに構築しようではございませんか!

人間らしき動物は100万年前に出現したと言われています。人類のような霊長類としては20万年前からとも言われています。
その人類史上に今までに三つの革命が起こりました。農業革命・産業革命・情報革命です。
一番目の農業革命の以前を狩猟採集時代と呼び、農業革命と二番目の産業革命の間は農耕文明、産業革命後の時代を工業文明と称しています。
この区分で言うと、まだ農耕文明の時代、冷暖房もなく家屋も貧弱な江戸時代に私・喜右衛門は生まれておりますので、物質の豊かさよりも精神を大切にし、また使命感を持ち縮緬織物の開発に燃えていました。
当時は、現代の価値観からは程遠い環境だったのです。。
そして今は情報革命の真っ最中。
この後、現れる文明は第三番目の文明でいまだに人類には見えておりません。
革命が起こり新しい文明が現れてその波が行き渡った頃見えてくるのがその時代の文化ということになります。革命・文明・文化と繰り返しながらスパイラルに同軸上をスライドしていくのが生命の進化と考えます。
その歴史観から推し量るとこの情報革命の意味を押さえないと次の文明や文化は見えてこないことになります。
インターネットや個人情報が氾濫している現在に情報とは人類に何を促がそうとしているのか?
人類は何のために情報を発信しているのか?
喜右衛門には、情報は人類の進化のための呼び水で、真の目的は意識革命から呼びさまされる人類の開放とでも言うか、すべての生命(菌類・植物・動物)の調和ということに帰結すると考えています。
常に環境が次なる革命を促し、生活スタイルを新しくして文明を生み、文化を花咲かせます。
進化は弱者であるがゆえに必要なもので、決して強者には訪れません。人類は次の進化を遂げられるのでしょうか?
未来に思いを馳せるなら同じ分量の過去を学ばねば道は見えないといわれます。
さて、あなたは喜右衛門以上に過去と未来を見据えようとされていますか?
お互い次の進化のために努力しましょう!進化の真っ只中に今、いるのですから・・・・・

前回はしろ(白・素)の話でありましたが、皆様御覚えておられますか?
日本は元来絹と麻しかない国でした。綿やウール素材は江戸も後半にしかお目見えしません。主に明治以後の織物素材として人々は手にするものです。
それに対して、意外にも絹は江戸時代から全国的に繭生産が行き渡り、出荷できない不良繭は糸として真綿から紬いでおり、庶民にも日常使いの出来る丈夫で貴重なリユース・リサイクルな素材でした。
ちなみに、絹のよさとは
 1.糸が均一であること。
 2.束ねるといくらでも太くなること。
 3.長繊維のため撚糸を掛けなくても織物にすることが出来ること。
 4.草木での染色が容易であること。
 5.繭からいくらでも綿になり、つむぐと糸になること。
 6.毛羽立ちが少なく夏涼しくて、冬暖かい重ね着が日常でも出来ること。などなど・・・・・
前回も話しましたが、糸を精練したり撚糸したりと言うのは喜右衛門の時代から研究され始めた新しい技術で、それ以前の絹糸は紡ぐ(紬ぐ)という技術で庶民にも大変親しまれた繊維と日本では位置づけられます。
物質的には鎖国の最中で地産地消を旨とする江戸時代にはもってこいの繊維だったのでしょう。庶民の間から上流階級へ広がって行ったものと喜右衛門は証言いたします。後の世の中において上流階級が取り上げ庶民にはもったいないと着る事を禁じた独り占め作戦に我々はまんまと陥れられたのです。
初代喜右衛門から塩野屋の精神には、絹は庶民の使いやすい製品を日常必需品として創れと家訓にしたためてられております。
江戸時代の文化レベルは一般庶民の位置において世界でトップクラスの開花をなした、日本の誇るべき時代だったと喜右衛門は思います。地球レベルで産業革命の波がその後訪れますが、日本も列強という外国の要望で鎖国を解除させられ、欧米並みの文明に追いつけ追い越せが明治以後のスローガンになりました。
その波を潜り抜け、江戸の文化を今も伝える日本の手仕事の中にこそ、日本人が世界に伝えるべきメッセージが潜んでいると喜右衛門は考えています。
環境保全が叫ばれて久しいこの頃ですが、江戸時代こそ「足るを知る」精神で、物質追求よりも人類の情緒や精神を高揚させた類まれな時間を3000万人が300年間共有した時代だったのです。
次回は文明と文化のお話です。ではまた・・・

江戸時代の染織の状況をまず話さないとこの独り言は喜右衛門が書いている意味が無いので、絹糸を創る所から最初の話を少し致します。
まず絹糸を繭から取るには熟練とコツが肝心です。
現在の様に糸は糸屋から買い付けるという時代ではありませんでした。
桑を育て、その葉っぱを幼虫に与えて約一ヶ月、数回脱皮を待つと蚕は綺麗な白い繭を作ってくれます。ここで喜んでいると中から十日も経てば蛾が飛び出てきますから、蚕が眠っている間にタイミングを見計らって糸を取り出す必要があります。
塩野屋では繭の保存のため中国秘伝の塩蔵(えんぞう)と呼ぶ塩漬け繭をつくるのですが、塩漬けの前、蚕が眠る微妙なタイミングを計るカンと経験に基づいて、この時ばかりは不眠不休で繭から糸を取り出したものです。
これを早くしないと、塩の中から蛾が這い出てきて惨憺たる状態になりますからね。
さて、生糸は白くて硬いものですが、藁を燃やした灰汁で生糸を炊くと更に白い綺麗な糸になります。これを糸精練と言います。この糸を白(しろ)と言い、この精練は、日本では当時貴重な新技術でした。
少しわかりづらいのですが、普通の織元では生糸のまま糸として使い、それも素(しろ)と同じく発音しました。つまり、精練もしていないただの素材そのものの生成り色を素(しろ)と言ったのであります。
それまで、日本には長らく素は有っても白は無かったのです。
練り貫(ねりぬき)と呼ばれた織物が桃山時代からありますが、これは素(しろ)の縦糸に中国から輸入した白(しろ)の糸を横糸に織り込むもので、辻が花などの染加工用の生地として多く用いられました。
塩野屋もこの練り貫を織ることを主に最初は仕事としていました。
こんな時代ですから、まず初めに桑の木を育てて蚕の卵を管理しなければ織物の材料は確保できなかったのです。
それに、火を炊くにも薪や藁が必要で家の中での織物仕事など出来る訳も無く、雨が続けばじっと我慢の繭とにらめっこの喜右衛門でした。
現代の塩野屋で使う撚糸技術など、江戸時代初期までは及びもつかない技術だったのです。

私、喜右衛門は塩野村から三日三晩かけて歩いて京の都に来ました。
伊勢街道を逆に沿って都を目指しましたが、暑い日差しは若い体にも辛かったのを覚えています。
なにせ重い荷物を背負っての一人旅。
服部家の代表として塩野村から選ばれた重責も多少ありましたが、
織物の街である京都のオオトネリ(大舎人)の地を踏むことを思い浮かべれば、
苦労も吹っ飛ぶひとり旅でした。
後に西陣と呼ばれるこの織物の街こそ塩野屋が14代も続く場所であり故郷となりましたが、
当時はまだ家もまばらな京都の北のはずれでした。
江戸時代は長男が家督を相続するのが慣わしで、次男以下は自分の道を探して新しい家族を作り
又その次男が新しい家族を作るという風に、家父長制度を奨励して新しい社会を目指した時代でもありました。
それ以前の忠義が人の道という武士道社会が崩壊して、物資に限りある中で経済を振興して戦いのない平和な世の中を創ろうとする企てが江戸のコンセプトと私・喜右衛門は観ます。
服部家にとっては医も衣も同じ目的のための仕事でした。
つまり、長男が塩野村で医者をしていたのと私・喜右衛門が織物屋を興したのとは同じ想いを貫いたことであり、
服部家にとっては奈良時代に中国からハタオリベとして日本に来たことへの先祖帰りでもあったと思います。
何しろ電気も水道もガスもない時代に、縮緬織を日本で初めて創ろうと言うものですから大変なことでした。
次回からは、江戸時代は何が必要と社会が思ったのか?何が大切と人々は考えたのかなど
私なりに喜右衛門のお話を致しますので独り言としてお付き合いくだされば嬉しいです。

喜右衛門である私は江戸時代の前期の1600年代の中頃に生まれました。
というのもまだ戸籍も確立していない社会情勢だったから生年月日は不明です。
今の滋賀県近江の国の現在は甲賀郡甲南町塩野という地に生まれた漢方医の次男坊でした。
元は、奈良に都が有った頃、薬師寺建立の時に鋳造技術者らと一緒に日本に渡ってきた帰化人
(中国から帰化した)の織物技術者スペシャリスト集団。
ご存知、忍者・服部半蔵も同じ一族らしいのです。
今で言えば拉致されたとは思いませんが、家族を捨てて単身日本の奈良の都に来たことを思うとき
心は悲しさで一杯になります。その後、京都の平安京に都が移されたときに、
奈良から東の地に領地を開拓する命により移り住んだとあります。
一方、一族は三重の伊賀にも移り住み、今も服部家が残っています。
後の世では甲賀・伊賀と主を異にして戦わねばならない運命も悲しいことでした。
今の時代のほうが平和で楽しいことも一杯ですが、それなりに江戸時代の日本も素晴らしい文化と
日本人としての人間性を育んだ時代でも有りました。
もちろん戦いや不文律も一杯ありましたが、みんなが力をあわせて新しい社会を創り出した、
「戦いのない平和な社会」そんな魅力のある時代でした。
これから「喜右衛門のひとりごと」としてコーナーを持つにあたってひとこと
自己紹介など致しました。次回からまず江戸を背景にいろいろ独り言を言います。
よろしくお付き合い下さい。

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