私、喜右衛門は塩野村から三日三晩かけて歩いて京の都に来ました。
伊勢街道を逆に沿って都を目指しましたが、暑い日差しは若い体にも辛かったのを覚えています。
なにせ重い荷物を背負っての一人旅。
服部家の代表として塩野村から選ばれた重責も多少ありましたが、
織物の街である京都のオオトネリ(大舎人)の地を踏むことを思い浮かべれば、
苦労も吹っ飛ぶひとり旅でした。
後に西陣と呼ばれるこの織物の街こそ塩野屋が14代も続く場所であり故郷となりましたが、
当時はまだ家もまばらな京都の北のはずれでした。
江戸時代は長男が家督を相続するのが慣わしで、次男以下は自分の道を探して新しい家族を作り
又その次男が新しい家族を作るという風に、家父長制度を奨励して新しい社会を目指した時代でもありました。
それ以前の忠義が人の道という武士道社会が崩壊して、物資に限りある中で経済を振興して戦いのない平和な世の中を創ろうとする企てが江戸のコンセプトと私・喜右衛門は観ます。
服部家にとっては医も衣も同じ目的のための仕事でした。
つまり、長男が塩野村で医者をしていたのと私・喜右衛門が織物屋を興したのとは同じ想いを貫いたことであり、
服部家にとっては奈良時代に中国からハタオリベとして日本に来たことへの先祖帰りでもあったと思います。
何しろ電気も水道もガスもない時代に、縮緬織を日本で初めて創ろうと言うものですから大変なことでした。
次回からは、江戸時代は何が必要と社会が思ったのか?何が大切と人々は考えたのかなど
私なりに喜右衛門のお話を致しますので独り言としてお付き合いくだされば嬉しいです。