江戸時代の染織の状況をまず話さないとこの独り言は喜右衛門が書いている意味が無いので、絹糸を創る所から最初の話を少し致します。
まず絹糸を繭から取るには熟練とコツが肝心です。
現在の様に糸は糸屋から買い付けるという時代ではありませんでした。
桑を育て、その葉っぱを幼虫に与えて約一ヶ月、数回脱皮を待つと蚕は綺麗な白い繭を作ってくれます。ここで喜んでいると中から十日も経てば蛾が飛び出てきますから、蚕が眠っている間にタイミングを見計らって糸を取り出す必要があります。
塩野屋では繭の保存のため中国秘伝の塩蔵(えんぞう)と呼ぶ塩漬け繭をつくるのですが、塩漬けの前、蚕が眠る微妙なタイミングを計るカンと経験に基づいて、この時ばかりは不眠不休で繭から糸を取り出したものです。
これを早くしないと、塩の中から蛾が這い出てきて惨憺たる状態になりますからね。
さて、生糸は白くて硬いものですが、藁を燃やした灰汁で生糸を炊くと更に白い綺麗な糸になります。これを糸精練と言います。この糸を白(しろ)と言い、この精練は、日本では当時貴重な新技術でした。
少しわかりづらいのですが、普通の織元では生糸のまま糸として使い、それも素(しろ)と同じく発音しました。つまり、精練もしていないただの素材そのものの生成り色を素(しろ)と言ったのであります。
それまで、日本には長らく素は有っても白は無かったのです。
練り貫(ねりぬき)と呼ばれた織物が桃山時代からありますが、これは素(しろ)の縦糸に中国から輸入した白(しろ)の糸を横糸に織り込むもので、辻が花などの染加工用の生地として多く用いられました。
塩野屋もこの練り貫を織ることを主に最初は仕事としていました。
こんな時代ですから、まず初めに桑の木を育てて蚕の卵を管理しなければ織物の材料は確保できなかったのです。
それに、火を炊くにも薪や藁が必要で家の中での織物仕事など出来る訳も無く、雨が続けばじっと我慢の繭とにらめっこの喜右衛門でした。
現代の塩野屋で使う撚糸技術など、江戸時代初期までは及びもつかない技術だったのです。